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アサカメを捲っていたら,「展評’12」という連載記事(桐谷麗了子氏担当)で,「カメラ分離派」なる人々の写真展(於,中京大学.4/16-5/19)の批評が載っていた.2010年に旗揚げされたカメラ分離派についての説明が載っていたが,そもそもこの名の下に集まった写真家の意見がどうも真っ向から対立するようなところがあったりして,今の民主党みたいな感じを受けた.
そして,キュレターが各写真にその写真の言わんとするところを説明する意味で比較対象のための絵画の写真を添付している.こうやってはじめて意味づけを明示しているらしい.




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    Fujifilm X10








つまり,その展示は 「説明なきところに写真は存在せず」を地で行っていたのである.
そもそも,”写真分離派” は,その主宰たる鷹野雄大氏が,NADiffにおいて2010年12月に旗揚げしたグループ.旗揚げの際のステートメントは以下のようである:

 誕生からおよそ170年,写真が大きな節目を迎えている.近い将来、新聞も雑誌もポスターも紙に印刷する時代は終わり,紙のように薄いモニター画面に表示する日が来るはずだ.扱われる画像は大半が動画となり,写真はマスメディアでの行き場を失うだろう。生き延びるとしたら美術の分野しかないはずだが,そのとき主流になるのは加工や合成を駆使した“絵画的写真”となってしまうような気がしてならない.
 そう考えるひとつの理由は,写真を単なる素材として扱う傾向が加速していることである.写真と実体との関係がどんどん希薄になっているのである.背景にはデジタル技術の一般化によって多くの人が「所詮写真は真実を写さない」と考えるようになったことがある.
 もちろん写真は“真実”を写したりはしない.写すべき “あるがままの現実” があると思っているわけでもない.写真が醸す “リアルさ” がイリュージョンに過ぎないことも十分承知だ.しかしだからと言って,誕生以来続いて来た “ストレート写真” が無意味になったとは思わない。それらは今でも実体の陰画として存在感を放っている.そこに漂う“生々しさ”こそ170年の歴史の中で写真が紡いで来た独自の世界ではなかろうか.
 1963年生まれに写真家が多いのは偶然とは思えない.それは70年代という写真の黄金時代に幼少期を過ごし,フィルムで撮影することを当然のこととして身体化した最後の世代だからだ. “写真” が崩壊しつつある今,我々は改めてその可能性を提起したい.(文責/鷹野隆大)

最初はスティーグリッツ関係の分離派のことかとも思ったが,必ずしもそうでもない.
よくは分からないが,美術から写真を分離するという趣旨だと言う人もいる.
現実を抽象化することなく,いかに表現するかが問われているとのこと.
論調からは,(デジタルによる)「絵画的写真」が否定され,むしろ具体的な現実,事象を写す「ストレート写真」の可能性を強調しているようだ.人によっては,メンバーの写真がむしろ絵画的だという意見もある.たしかにひと頃言われたストレート写真とはダイレクトに繋がらないようにも見える.
絵画的写真と一括りにするが,これも昔と違って,千差万別な解釈があるので,その差別が一筋縄ではいかないように思う.なにをどう分離したいのか?銀塩写真への無い物ねだりの郷愁とデジタルへの反発にも見える.

分離派で想い出したのが,その昔,建築の方で勃興した運動 ”分離派建築会”(1920年)である.
東大の建築学科で,当時,耐震構造などの工学面を強調していたのに反発して,建築の芸術性を主張したものであった.
結成の宣言:
我々は起つ.過去建築圏より分離し,総ての建築をして眞に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために.我々は起つ.過去建築圏内に眠って居る総のものを目覚さんが為に,溺れつつある総のものを救はんがために.我々は起つ.我々の此理想の実現のためには我々の総のものを愉悦の中に献げ,倒るるまで,死にまでを期して.我々一同右を世界に向かって宣言する.

すごいね.意気込みが違う.写真の方の分離派は,こんな覚悟あるのかな?
で,結局,分離派ってなんだか分からなかった.ストレートフォトならぬ,ストレート表現ができないものか?
疲れたし,アタマ悪いので分かりません (´ヘ`;) う~ん・・・




≫私どもも,7月に写真展やりまつ馬耳東風
  (ギャラリー住所をクリックすると,アクセスなど分かります)

Justin ...
by Neoribates | 2012-06-01 12:34 | X10 | Comments(12)

      ◆          画像は,クリックするとすべて拡大できま~す              


by Neoribates